Film Scoring

第2章 映画における音楽様式

クラッシック、或いはクラッシック様式の音楽

往年のハリウッド映画に代表されるスタイルでお馴染みの大編成フル・オーケストラでの音楽は、ジャンルを問わず現在も大作には多く採用されている。 大御所と云われる作曲家達も最近ではシンセサイザーを絡ませたりしているが、細かな心情表現から勇壮なスペクタルまで、その表現力はオールマイティーと言っても良いかも知れない。 
だが、その反面これ見よがしな表現に陥る事もあり、物語以上に膨らませ過ぎた、或いはアメリカン・アニメの様に終始オーケストラが鳴りっぱなしで、逆に観客の集中力を欠いてしまうきらいもあるので、全体への配分と音楽のメリハリに注意が必要であろう。
オリジナルと共に、実際にクラッシック曲が使われる事も多いが、これには後の章で解説すると思うが著作権の問題も含まれている。
それとは別に、武満徹氏の様に所謂「現代音楽」と云われる音楽はクラッシックの様式とは一線を画していると思うのだが、氏の特有の音楽観は誰にも何処にも属さないと言える。

ジャズ(スウィング・ジャズ、モダン・ジャズ、フリージャズなど)

近年の音楽をこう言ったジャンル分けで表す事自体本意では無いのだが、解説を解りやすくする為に、敢えて使わせて頂きます。
ジャズの持つ雰囲気は、映画に都会的な色合いを持たせるのに有効なのは、既に数々の映画で立証されていると思うが、それと共に登場人物と音楽の距離感に注目すべきだろう。
ある一定の距離以上に踏み込まない、必要以上に感情移入をしない等、有り体に言えばそれは「クール」と言う表現が一番解りやすいかと思う。 また、ジャズのスタイルは映画音楽作曲技法の上で、一つの方法論を確立したとも言える。 ニューヨークの裏通りやシカゴを舞台としたギャング映画で、忍び寄るウッドベースのランニング、走り抜けるドラムソロ、娼婦館ではアンニュイなブラスセクションのソリ、或いは都会派ライト・コメディでは軽快なジャズが使われる事によって、セリフの裏に隠された風刺的なメッセージを感じさせる。
余談だが、ウディー・アレンもニューヨークに自分のジャズクラブを持っていたはず。

コンテンポラリー・ミュージック(ポップス、ロック、ピップ・ポップなど)

これは後に述べる主題歌や挿入歌とは別に考えて頂きたい。 ポップスの場合はアイドルタレントの主演映画に限らず、最近では珍しくなくなったが、ストーリーに弾みを付けると云う意味では有効だとは思う。(私はちょっと苦手だが) その分失敗すると物語全体の重みが軽くなりすぎて本来あったメッセージが観客に伝わらず軽薄な印象を与えてしまう危険性もある。 もっとも、そう言ったメッセージが元々あればの話だが。
また、最近では時代劇にハードなロック・ミュージックを起用する例もあり、お決まりの型に収まらず、新しい試みを模索して行く方々には、苦労や失敗ももあるだろうが拍手を送りたい。 基本的には主人公あるいは登場人物たちの生き方、考え方をはっきりとアピールする為に、こう云ったスタイルが有効になる訳で、音楽のスタイルが先にある訳ではない。
ある種の若者の生き方を追った映画でヒップ・ポップなど、その人物の生活環境にある音楽がリンクして行くのは自然な事で、観客の感情移入はクラシカルなオーケストラ・サウンドよりも遙かに身近に感じられるはずだ。 

デジタル・ミュージック

このジャンルをコンテンポラリー・ミュージックと別にしたのは、前項とは明らかに違う表現方法だと思っているからだ。 コンピュータやシンセサイザーを駆使したこの音楽は今では全く珍しい型ちでは無くなった。 ヴァンゲリスやマイク・オールドフィールドと云った作曲家たちが映画音楽に登場してから既に久しい。 デジタルと云ってもその表現力は非常に多彩で、何も近未来SFだけの世界に留まらない。 無表情な虚無感と云う印象は昔の話でしかなく、壮大なオーケストラでも表現の出来ない広がりから、激しく繰り返されるシークェンス、心の襞にまで届く繊細さ、など自由自在に展開されるその音楽はまだまだ新しい可能性を秘めている。 使う人間のイマジネーションの発展がまた新しいものを産み出すからだ。 悲しいのは日本の場合、制作予算がないのでシンセで何とかならないか、と言う様な状況がいまだにある事だ。 フル・オーケストラのスコアリングと同じくらい、あるいはそれ以上にアイディアとイマジネーション、膨大なデータ作りが実は必要だと云う事がなかなか理解されないでいる。 必要な所に必要なスタイルの音楽を、という当たり前の事がままならないのは、映画製作者の音楽に対する無理解と勉強不足に他ならない。

民族音楽

様々な国や地方固有の民族音楽は、場合に依っては舞台の地域性を浮き立たせるものだが、逆に場面と関係なく他方の民族音楽が聞こえると、その地域背景は混乱するだろう。可成り慎重に、また巧妙にプランを立てなければならない音楽でもある訳だ。 しかしながら、この民族音楽の持つ特異性は、様々な場面で奥深い表現を可能にする事も十分にある。
舞台がアフリカや中近東あるいは中国などでは、非常に良く用いられる手法だが、映画の舞台はそんなに解りやすい地域だけではない。 私自身、南米のフォルクローレやアフリカ音楽を取り入れた作品もあるが、それなりの背景があったからで、やみくもに面白いからなどと言って出来るものではない。 地域性だけの為に民族音楽を採用するのであれば、その地域に実際にある音楽を、その地域の人達の演奏で使うべきものだと思う。 つまり本物をそのままの音源で使うと言う事だ。 作曲家としての仕事はアフリカ人やアラブ人になりきる事ではなく、自分の音楽性を失わずに、必要なエッセンスを取り入れつつ、いかにスコアリングして行くかと言う事だと思う。 どのスコアにも作曲家の主体的な意志が反映していなければ意味がないのだ。 表現手段として民族楽器を使う事もしばしばだが、その楽器の持つ独特な音色は得てして暖かみがあり、洗練された近代西洋楽器にはない人間性を感じさせるので大好きなのだが、民族音楽そのものとは別に考えている。

この章も、前章と同じく単独で考えるよりも、色々なスタイルが複合的に構成される場合の方が多いだろう。
このページを書くにあたり、自分自身も色々と頭の中を整理しつつ進めているのだが、言葉が足りなかったり私の認識不足、勉強不足も同時に指摘されるかも知れない。 このページは映画音楽を志す人へのノウハウを伝えるためのページではなく、冒頭に書いた様に、あくまでも一般の方達の映画を見る一つの角度を提示出来ればと言う想いからで、その一端を担えれば幸いです。 と今から言い訳をしておきますが、質問などあればGuest Bookの方で対処して行きたいと思っておりますので、気軽に書き込んで頂いて構いません。

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